夢に関する徒然

ひとりごと

小学生の頃から「夢を見ること」について、期待値が高かったような気がします。

それは私が「想像すること」が好きで、小学生の頃は小説家になりたかったことと無縁ではないように思います。

私にとって「寝ること」は、「疲れをとる」ためにすることではなく、「夢を見る」ためにすることといえました。

「今日はどんな夢を見るんだろう」

とワクワクしながら布団にもぐりこんでいました。

また、思春期には、お約束の「好きな人が夢に出てくるのを願いながら眠りにつく」というのもありました。

ただ、一時期某国家試験を受験していた頃は「夢を見るのが怖かった」時期でもあります。

というのも、この時期は10回夢を見たとしたら8回は同じ内容の夢だったからです。

内容的には「悪夢」とはいえないものです。

ですが、毎夜毎夜同じようなストーリーの夢を見、朝目が覚めるというのはあまり楽しいものではありませんでした。

「またこの類の夢か…」

と思いながら目覚める朝は、どこか疲れた気持ちで一日が始まりました。

その夢の内容は、「電車に乗ってどこかに行くが、目的地には着かない」というものでした。

乗り換えを間違えたり、知らない駅で降りてしまったり、あるいは延々と同じ景色が車窓に広がり続けたり。試験への不安が「目的地に到達できない」という形で表れていたのでしょうか。

なぜ目的地に着かないのか。なぜ電車だったのか。合格が遠く、終わりが見えないと感じていたからかもしれません。あるいは、自分の人生の行き先が見えなくて不安だったのかもしれません。

試験を受けるのを止めると、不思議なことにその類の夢を見ることはなくなりました。

また、日常生活が同じような毎日の繰り返しになると、夢を覚えている確率が減ったように感じます。何となく起床した直後の感覚からほんのり覚えているのは、現実とあまり変わらないような出来事。

私たちは人生の約三分の一を睡眠に費やしています。そのうちの一部の時間を夢を見ることに使っているわけですが、それは決して無駄な時間ではないのでしょう。夢の中では、現実では経験できないことを体験し、現実では出会えない人に会い、現実では行けない場所に行くことができます。言わば、もうひとつの人生を生きているようなものかもしれません。

そして時々、夢と現実が交錯する瞬間があります。「これ、前に夢で見たことがある」という既視感や、現実の出来事が夢に影響を与えたり、逆に夢が現実の選択に影響を与えたり。そんな不思議な関係性を感じる時、私は改めて「夢を見ること」の豊かさと深さを実感するのです。

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